半農半監督

父と。2018年秋の稲刈り。

ぼくがコンバインで稲を刈り、父が刈り残しの稲を手で刈る。

これが父と協働した最後の稲刈りになった。

(書籍『きみが死んだあとで』「ぼくの話2・3」から引用)

●少年時代の「記憶」の断片

 

「水田で泳いでいる自分」。それがぼくが覚えている最初の記憶である。泥土の感触の記憶。アルバムに残る1枚の古い写真が「水田で泳いでいる自分」を最初の記憶として、ぼくのこころに移植したのかもしれないとも思う。水田の端っこに立つ桑の木に荒縄でつながれた赤ん坊が水田をはいまわり、田植えをする女衆が一瞬その手を止めて喝采を送っている写真。でも、ぼくの身体にはそのときの泥土の感触が確かに残り続けているから、それを生まれてはじめての記憶と思っている。


ぼくは1958年2月生まれだから、59年春の田植えだろうか。当時は田植えも稲刈りもすべて手作業で、近隣の仲のいい農家5軒くらいが助け合って(「結(ゆい)」を組んで)いた。そんな村落共同体の助け合いは70年代前半に消滅する。農業の近代化=機械化である。田植え機、コンバイン(稲刈り機)が登場し、その購入代金を稼ぐために男衆は賃労働に出かけ、女衆が農業の主体となる兼業農家が増えていった。毎年春になると「春はさなえの季節です」と桜田淳子が田植え機を楽々と操るCMが流れていた。 
 

「治彦、田んぼの川でドジョウをとってこい」と祖母によく頼まれた。小学3年くらいまでの春先から夏にかけてだったか。魚網とバケツを手にしたぼくは川に着くと「かいぼり」をはじめる。幅1メートルくらいの用水路(まだコンクリートで固められていない)を上流側と下流側で堰き止め(泥土で堰をつくる)、堰の内側の水を汲み出して、その底にもぐりこんでいるドジョウを捕まえるのだ。フナやハヤもよく獲れた。ドジョウは3日間くらい金盥で泳がせて泥抜きし、ネギと一緒に丸ごと醤油で煮て食べる。フナやハヤは甘露煮にして食べる。 

 身体の弱かった祖母は田んぼの川で獲れる川魚が大好物だった。「治彦のおかげで精が出るよ」と言われると嬉しくて(お駄賃ももらえた)、毎年春になると勇んで「かいぼり」に出かけたものだった。しかし、「かいぼり」ができたのは小学4年くらいまで。川が汚染されてしまったのだ。フナやハヤが川面に浮かび、死んでいる光景が見られるようになる。 

1960年代、ヘリコプターによる田んぼへの農薬散布が普及。汚染の一番の原因は田んぼへの除草剤散布と言われている。村落共同体で助け合って稲作をしていた時代は田んぼの草取りも手作業で小まめにやっていた。しかし、賃仕事に行く男衆が農業から抜け、人手不足になり、一番の重労働の草取りができなくなる。だから田んぼに除草剤を使い、農薬を残留させた水が川へと循環し、川魚が死ぬ。 

68年9月、水俣病の原因がチッソ水俣工場から排水されたメチル水銀化合物(有機水銀)であると公式発表された。56年に発生が確認されてから原因確定まで12年間も、政府と企業は隠蔽を図ろうとしたのである。その12年間にどれほど多くの新たな水俣病患者が生まれたか。特に胎児性患者を増やした罪は重い。 

 当時、ベトナムでは米軍によって枯葉剤が空から散布された。ベトコンの隠れ家となる森林を枯れさせるためである。その結果、先天性異常児の出産が急増した。81年に生まれた結合双生児、ベトちゃんドクちゃんは日本でも有名になった。ベトナム戦争で化学兵器として使われた枯葉剤は米国の化学メーカーが量産した除草剤の一種である。 

 60年代、つまりぼくの小学校時代、何かが大きく変わった。川のドジョウやフナやハヤが食べられなくなった。水俣では工場から海に排出された有機水銀を体内に溜めた魚を食べた多くの人間が死に至る病になった。ベトナムでは米軍が散布した枯葉剤によって先天性異常児が急増した。70年、大阪で「人類の進歩と調和」をテーマにした万国博覧会が開かれた。いまから思えば、それは産業革命以来の「人類の進歩」に警鐘を鳴らすイベントだった。科学技術の進歩が自然の不調和をもたらす時代の幕開けだったのだ。やがて田んぼからゲンゴロウやトノマサガエルが消え、家の前の畑ではナナホシテントウやオニヤンマを見かけなくなった。2011年3月11日に発生した東日本大震災によって甚大事故を起こした福島第一原子力発電所の工事着工が67年だったことは、60年代に何かが大きく変わったことを象徴している。 

●みんな悩んで大きくなった

 

 いまも強く記憶しているCMソングがある。作家の野坂昭如が出演したサントリーゴールドのCMだ。調べたら1976年に放送されていた(作詞はコピーライターの仲畑貴志)。ぼくが大学浪人した年だ。

 

ソ・ソ・ソクラテスか

プラトンか

ニ・ニ・ニーチェか

サルトルか

みんな悩んで大きくなった

大きいわァ大物よォ

おれもおまえも大物だァ

そうよ大物よォ

 

「みんな悩んで大きなった」というフレーズに共感した。と同時に「みんな悩んで大きくなって、それからどうするの」と思ったものだ。敗戦後の混乱期から1950年に勃発した朝鮮戦争特需で立ち直った日本は、60年代後半はベトナム戦争特需の恩恵を受け、68年についに米国に次ぐGDP(国内総生産)世界第2位の経済大国になった。

1954年に警察予備隊が自衛隊に格上げされ、60年に日米安保条約が改定され、東西冷戦の国際的枠組みに組み込まれた。64年の東京オリンピックが成功し、同時に東海道新幹線や首都高速道路の開通、70年には「人類の進歩と調和」をテーマに大阪万博を開催、72年にのちに総理大臣となる田中角栄が「日本列島改造論」を発表。「みんな悩んで大きくなった」と野坂昭如が歌うCMソングが一世を風靡した76年には、「みんな悩んで大きくなっても、絶対ぶっ壊すことができない」システムがほぼ完成した戦後日本社会が誕生していたのだ。

 おまけに1960年の「60年安保闘争」からつづいてきた「若者が主役の闘争」は完璧に権力に敗北し、その負けた当事者たちの多くはのうのうと日本社会の政治経済プログラムに組み込まれていった。そう、ぼくが大学に入学した77年4月にはすべてが終わっていて、前の世代と同じように「みんな悩んで大きくなった」ぼくたちは、前の世代の失敗を目の当たりにして「悩んで損しちゃった」とため息をつき、マスターベーション、つまり自慰するしか能のない「しらけ世代」になり、プログラム化された社会の一員になることを一時的に拒否する「モラトリアム世代」になった(大学時代を”モラトリアム期間”として過ごし、その後まじめに就職する。この国ではそんな青春が70年代後半から定番の定食のようにずっとつづいている)。

(ここからは2025年2月4日、67歳の誕生日に書き下ろした原稿)

●45年ぶりの故郷への帰還

大学に入学した1977年から両親の介護がはじまる2017年まで、ぼくは生まれ育った埼玉県熊谷市農村部から逃亡した。その40年間、ぼくは東京で「自由に」生きた(どう生きたのかは、このHPにある〈プロフィール〉を参照してほしい)。「みんな悩んで大きくなっても、絶対にぶっ壊すことができない」システムに組み込まれることに抗って、「自分のやりたいことをやるんだ、人生はお金じゃないんだ」とわがままに。その結果、ぼくは多くのひとを傷つけたかもしれない。ごめんなさい。家族にも迷惑をかけたと思う。ごめんね。

でも、ぼくがいちばん謝らなければいけないのはやっぱり両親だろう。「大学を卒業したら熊谷で一緒に暮らしてほしい」という母の希望を無視した。就職した博報堂をわずか2年でやめるときは父の反対を無視した。まったく絵に描いたような「不肖の長男」である。32歳のとき、沖縄で劇映画を製作した。予算1億円。その4分の1の2500万円を父は土地を抵当に入れて用意してくれた(映画がヒットしたので、このお金は翌年返済できた)。会社にも組織にも属さず、零細自営業をつづけるぼくのことを「いつまでそんなルンペンみたいなことをやっているんだい」と母は嘆いた。

2017年5月、母が脳梗塞で倒れ、入院した。同時に父は認知症と診断された。ぼくは家族を東京に残し、両親の介護のために単身で拠点を熊谷の家に移した。2019年、介護しながら作った映画『きみが死んだあとで』公開。2020年7月、母旅立つ。コロナ禍だったので病院で看取りができたのは、ぼくひとりだった。「治彦、ありがとうね」が母の最後の言葉。耳に残る。2022年3月、父旅立つ。まだコロナ禍だったので、病院での父の看取りもぼくひとりだった。両親の介護は、両親の期待を裏切りつづけた「不肖の長男」の贖罪の日々でもあった。母は人生に満足していたのだろうか。父はどんな気持ちで死んだのだろう。

母を看取り、父がグループホームに入所した2020年12月、ぼくがこれからどうしようかともじもじしていたら、妻に「わたしたち、熊谷で暮らそう」と背中を押された。こうして逃亡から45年後、東京の自宅を完全に引き払い、21年5月にぼくは妻と二人で熊谷へ帰還した。「さあ、これからどうしよう」と田畑を見まわすと、ぼくの少年時代の風景がまったく失われていることに愕然とする。田植えをした田んぼからは生きものが消えていた。カエルの鳴き声もか細くなっていた。レイチェル・カーソンが警告した「沈黙の春」がそこにあった。さて、「沈黙の田んぼ」をどう耕そうか。

●半農半監督

 63歳で「半農半監督」になった。両親が耕してきた田んぼに近所の農家から借りた田んぼを加え、合計1.5haで米と麦の二毛作をやり、夏は10aの畑でブルーベリーを収穫している。

 22年から2年がかりで製作した新作『ゲバルトの杜〜彼は早稲田で死んだ〜』は24年に全国公開できた。 実は農業でも食えない、映画でも食えない。「半人前農業」と「半人前監督」を合わせて「半農半監督」だと思っている。

農業にも、監督にも定年はない。いまは死ぬまで「半農半監督」をつづけたいと考えているが、意気地のない「不肖の長男」の逃亡願望がいつ再燃してもおかしくない。東京のネオン街が恋しくなるか、最後の冒険に出かけたくなるか。人生は終わってみるまでわからない。森崎東監督の映画『生きているうちが花なのよ、死んだらそれまでよ党宣言』にはどこかで共感している。

2023年6月。田植えをした田んぼに水浴びにきたカモたち。

2024年5月。「麦秋」を迎えた田んぼ。

2024年7月。日本一暑い熊谷で実るブルーベリー。